「非政府」性が損なわれつつある―こうした言葉が今のNGOにとって、むしろ新たな現実を如実に物語っているようだ。
昔はよく聞いたものである、「政府のやることに対する反発」としてのNGO。
その存在は、あくまで政府の国際協力(ODA)を批判する立場にあった。
だが、今やその姿勢もまた色褪せ、ある意味で「非政府」という名の下に活動するその場所が徐々に曖昧になりつつある。
NGOの「非政府」性とは
NGOなるものは、本来、政府から独立して活動し、社会的使命に基づいて、営利のためではなく、ただひたすら社会の底辺に目を向けて支援を行う、そんな存在だった。ところが、いつの間にかその目指していた理想の姿が歪み始め、社会的使命という美しい言葉が、どこかで政府の意向に引き寄せられるようになっていったのである。
NGOが「非政府」性を失いつつある背景
1. 政府からの資金依存
かつては、NGOが自らの手で資金を調達し、独立した活動をしていた時代があった。だが、今ではその資金調達の多くが政府の予算に依存するようになり、気づけばNGOが政府の「下請け」のような立場になってしまっている。
このことをどう見なければならないのか。政府からの支援を受けることで、活動の自由度は確かに高まるかもしれないが、それが同時に政府の意向に左右されることを意味するのだ。
日本のODA予算の一部がNGOに回され、そのためNGOは政府の方針に従うことを強いられる。政府が設定した優先事項に基づく活動を余儀なくされるわけだ。
結果として、NGOが行うべき活動が、政府の意図に引き寄せられることとなり、本来の使命からズレが生じているように思えるのである。
2. 政府の戦略的利用
そうなると、次に考えなければならないのは、政府がNGOをどのように利用しているかという点だ。政府はNGOを通じて自国の外交政策を進めようとする。
つまり、NGOが行う支援活動が、政府の外交的目標に沿ったものになるという、実に不都合な現象が生まれるのである。
例えば、日本政府の開発支援事業がNGOに委託される場合、そのNGOは政府の外交政策に従う形で現地支援を行うことになり、かつて持っていた自由度はほとんど失われてしまう。
こうしてNGOは、政府の意向に従う道具として扱われることになる。もはや、社会の底辺に対する独立した支援者というよりも、政府の利益を守るための手段に過ぎなくなるわけだ。
3. NGOの活動範囲の政府の優先順位に依存
さらに問題なのは、政府からの資金提供を受けることにより、NGOの活動範囲が政府の優先事項に依存するようになる点である。
かつてNGOが行っていた「現場のニーズに即した支援」という形から、どんどんと「政府の優先事項に従った支援」へと変わりつつある。従来、NGOが自由に活動することができた地域や分野も、今では政府の政策に沿った形で絞られてしまう。
たとえば、あるNGOが貧困削減や環境保護を目的として支援していたとしても、政府の政策変更により、特定の国や地域への支援が優先されることが多くなる。結果として、NGOの活動は政府の戦略に従属することになり、その本来の社会的使命が後回しにされてしまうのだ。
NGOの「非政府」性が失われる具体的な影響
1. 損なわれる活動の中立性
かつて、NGOは戦争や人権問題、環境問題において政府とは違った立場から、声を上げていた。しかし、今やその声も次第に小さくなり、政府の資金援助を受けることで、その活動は政府の意向に影響されることが避けられなくなった。批判的な立場を取ることが難しくなり、本来は声を上げるべきところで沈黙を強いられることになる。
例えば、ある国の政府がNGOに資金を提供する際、その政府が行っている人権問題や環境問題に対して、NGOは直接的な批判を避けるようになるだろう。
つまり、政府からの支援を受けることで、NGOの活動の中立性が損なわれ、政府の意向に従うことが多くなるのだ。
2. 政府の「下請け」的役割になるNGO
そして最も憂慮すべきは、NGOの役割が政府の「下請け」的になることである。政府の設定した目標を達成するために、NGOがその一部として働くことになる。これにより、NGOは独自の使命を果たすのではなく、政府が求める「成果」を出すために動かされることになる。
まるで政府の指示に基づいた「下請け」として活動しているかのように、NGOの独立性は損なわれ、次第に本来の役割が見失われることになるだろう。
「非政府」性が失われるということは、NGOの独立した立場が失われるということであり、活動の自由が奪われることを意味する。政府の意向に従うことになり、NGOが持っていた本来の使命は後回しにされてしまうのだ。
今後、NGOはその「非政府」性を維持するために、政府との協力関係を築く一方で、独立した立場と使命を守るための方策を模索し続ける必要があるだろう。
それは、まるで風に吹かれて揺れる草のように見える。